NAITO SUKETADA

内藤資忠イズム
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FOUNDER

創業者 内藤資忠


内藤資忠は京都大学に勤務していた当時、京都大学法学部及び経済学部本館などを設計している。同時期には京都大学の本部本館や工学部建築学教室本館も建設されており、その設計者は武田五一である。武田と内藤は師弟関係にあった。

内藤は大陸科学院本館のコンペ当選を機に、活動の場を旧満州国に広げる。その地で得やすい材料を活かし、その地の従来からある構造を素地として、その地の気候風土を会得して設計を行った。まず構造の合理化、構法の開発、極寒の地での暖房や断熱など設備環境への着目も早かった。

内藤資忠
今も使われる大連駅舎(2011年11月撮影) 今も使われる大連駅舎(2011年11月撮影)

今も使われる大連駅舎(2011年11月撮影)

1937(昭和12)年に竣工した大連駅舎の設計に参画。出発は2階、到着は1階と乗降客の流れを立体的に分離した、当時としては斬新な設計だった。1942(昭和17)年、内藤建築事務所を京都市と旧満州国新京市(現・長春市)に同時に開設する。
その後、終戦により休業、1947(昭和22)年、京都に事務所を再開、自宅の応接間を事務所として、戦災に遭ったビルの改修などから仕事にとりかかり、復興とともに仕事を全国に広げていくと同時に、公共建築物などの不燃化・軽量化をめざした工法の研究に本格的に取り組み、1950(昭和25)年に「内藤式曲面版工法」を開発した。

1953(昭和28)年に株式会社に改組、内藤は初代社長に就任した。以後20年間にわたり社長を務め、1973(昭和48)年、会長に就任、1985(昭和60)年、81歳で死去した。
内藤資忠は「建物は使用者にとって機能的でなければならない。そのために施主の払う費用は無駄のないように。設計者はその責任を後までも果たすように」という言葉を残している。

LIFE

生涯

1903

東京市目黒に生まれる
目黒区白金小学校卒業
府立第四中学(現・戸山高等学校) 卒業
第三高等学校卒業

1927

京都大学工学部卒業
朝鮮総督府の技手として赴任

1932

京都大学営繕課に移る
旧満州国国務院「大陸科学院本館」コンペ当選
大連駅舎設計に参画

1938

満州房産㈱に移る
技術課長に就任

1940

建築興業㈱常務取締役を兼任

1942

内藤建築事務所を開設

1953

社長に就任

1973

会長に就任

1985

死去

内藤資忠の作品


京都大学附属病院耳鼻咽喉科学教室病舎
京都大学附属病院耳鼻咽喉科学教室病舎

1934年竣工
『京都大学建築八十年のあゆみ』(1977年発行)より

京都大学理学部動物学及び植物学教室本館
京都大学理学部動物学及び植物学教室本館

1936年竣工
『京都大学建築八十年のあゆみ』(1977年発行)より

京都大学附属病院内科学教室病舎
京都大学附属病院内科学教室病舎

1936年竣工
『京都大学建築八十年のあゆみ』(1977年発行)より

大陸科学院本館
大陸科学院本館

1935年竣工

大陸科学院本館
大陸科学院本館

1935年竣工

現在の大連駅舎
現在の大連駅舎

2011年11月撮影

INSTRUCTION

訓示集-内藤資忠のことば-

会長訓示


昭和49年4月1日入社式

諸君はこれからが勉強である。今迄はその土台に過ぎない。

描くものに責任を持つと共に、施主の金を使うので経済的、能率的に考え、定石をよく憶えてあやまりのないよう十年後にたくわえた創造力を発揮して欲しい。

01

会長挨拶
「年頭に思う」


昭和50年新年
第1回全体会議(1月14日)

今年も昨年と同様不況の年である。
しかし全員一丸となって努力すればよい方向へ行くと思う。

着飾った花魁のような時代は終わったし許されない時代である。質実剛健で骨格のしっかりしたもの、そして大地に足をしっかりつけ、自信をもって仕事に向かって欲しい。
設計面において建築は人間と同様に寒い場所ではそれなりの衣服を(適切な建築部分、設備を)暑い場所では不要な衣服を脱ぐと云う具合に適材適所なる建物を創る等創意工夫をいたる処に出して欲しい。互いに各自意思のかよい合いを大事にして緊密なコンビネーションプレーで設計してもらいたい。一人一人の個人プレーでなく、常に自己反省や回顧がなされ、互いの技量をよく知った上での百名のコンビネーションプレーが必要なのである。

02

会長訓示


昭和55年入社式

ご両親のここ迄の苦労は大変なものであったろうと、推察される。自分が学校をでたての頃は頭の中に何も残らず外国建築雑誌の切りはぎを習った程度であった。

諸君はこれから一点・一線を大事にして建築家としての最高峰を目指し我社と云う一つの屋根で勉強し、たゆまぬ努力をしてほしい。自己の目的・方針をしっかり立てて地面を一歩一歩ふみしてめて登ってゆくように、きびしい世情に対処するにはガンコな程強い精神力が必要で生き残る要素である。省エネ時代にかかわらず建物を含めて物を大事に扱うよう心掛けること。

03

会長年頭挨拶
(最後の訓示)


昭和60年1月新春

皆さん、新年あけましておめでとうございます。
こうやって元気そうな諸君を見ると、今年はなんか出来そうな気がして心強く思います。

毎年年の初めに思うのですが、建築家とはどんなものかといつも考えます。つまり人のお金でその人に信頼を受けて向こうの希望するものを建てる仕事です。従って誠心誠意やらないと建築のコンサルタントとしての商売はつとまりません。殊に我々の仕事は多くの税金を使ってやるものです。だから少しでも私心があってはダメです。もう一つは建物を好きだ。いいものを工夫して作ってやろう。一種の執念だ。建物に愛情をもって一条の線を引き一文字を書き込んでもらいたい。この二つは当然だ。
そしてもう一つ考えることは、昭和23年頃、今の京大教養学部の東側の部屋で再出発した時は三人だったが、人間が増えて多くなるといつも私達の責任が重たくなる。諸君には先のルーツでいかに税金を有効にムダなくお金を大事に使っていくかに専念し、努力してもらうが、それをサポートしてゆく責任を感じそして責任を果たし、尽くします。終り。

04

NAITO ARCHITECTS

内藤建築事務所


内藤建築事務所は1942(昭和17)年に内藤資忠によって開設された。
1945(昭和20)年から2年間休業した後、1947(昭和22)年に京都で内藤建築事務所を再開する。

1950(昭和25)年に鉄筋コンクリートアーチ型スラブ( 実用新案登録)を開発、1954(昭和29)年には改良アーチ型スラブ(実用新案登録)と構築法(特許登録)を開発し、「内藤式曲面版工法」を完成した。内藤式曲面版工法はその後、改良が加えられ、1972(昭和47)年に内藤式SDR工法として発展した。
戦後の教育改革にともない、教育施設建設は急務であった。建設費の軽減がはかれるこの工法が、経済的な基盤の弱い中小自治体で採用され、全国の教育施設や公共施設の建設に貢献するとともに、事務所の基礎が確立された。
1955(昭和30)年ころから英米に技術員を派遣、病院建築を研究し、知識を広めた企画設計により多くの自治体から注文をいただき、「病院の内藤」と称されるようになる。全国の数多くの実績により培ってきたノウハウを活かしつつ、複雑化かつ高度化していく施設環境に対応するため、当社は新たな高度な技術と幅広い知識を吸収するため、日々調査・研究を行っている。
次代の公共施設や住宅、産業施設の整備をサポートし、人びとのさらなる幸福や福祉の増進、地域社会の発展などに貢献し、そして建築に課せられた新たな使命を全うできるよう、各種の有資格者がスペシャリストとなり、バランスのとれた施設づくりを提案しつづける。

内藤式SDR工法が採用された那覇市立病院(1980年竣工) 内藤式SDR工法が採用された那覇市立病院(1980年竣工)
特許写真1 特許写真2 特許写真3

DESIGN HISTORY

設計の歴史


奈良県立医科大学付属病院
奈良県立医科大学付属病院1955年~設計

1965年の航空写真

京都府立医科大学付属病院
京都府立医科大学付属病院1958年~設計

診療棟3期(1961年設計、1963年竣工)

京都大学医学部付属病院
京都大学医学部付属病院1964年~設計

外科系総合病棟(1968年設計、1970年竣工)

知的障害児施設・障碍者支援施設 大阪府立金剛コロニー
知的障害児施設・障碍者支援施設
大阪府立金剛コロニー1969~71年設計
松本市立開智小学校
松本市立開智小学校1962年設計

「日本の学校建築68」全国優良施設校

長野県庁舎
長野県庁舎1965年設計
京都産業会館
京都産業会館1964年設計

CORPORATE SYMBOL

社章の由来


ロゴマーク

創設者内藤資忠は、第二次大戦後の復興期に機能を優先したシンプルで安価なシャーレ構造の床を生み出した、アーチスラブ構築法(特許)を開発しました。
建設材料が思う様に手に入らない状況のなかで、安全で経済的なこの構築法は、全国の学校や病院など多くの建築に使用され、当社の全国展開への原動力となりました。
時代にマッチした真に良い建築物を設計することを常にもとめる精神と信念をこめ社章のデザインとしています。

INFORMATION

会社情報